ブログ・コラム
2024.12.24
合意できる形を目指す
先日、自治会(私の住んでいる地域では「区」と称される)で、
ある議題が話し合いが行われ、紛糾した。
詳細を書くと内容が個人に寄るため省くが、
AさんBさん2人のそれぞれの立場から、ある施策をやる・やらないの意見が真っ向からぶつかった。
最初はそれぞれの主張の述べているにとどまっていたが、
途中から相手の言葉尻に白熱し、
2人のトーンが次第に上がっていった。
声が大きくなり、
相手の話の途中に自分の言葉を挟むような状況に。
私はいち同席者で、議論の内容には無関係ではあったが、
これ以上はまずいと感じ、立場を超えた行為ではあったが
話の途中で割り込み、2人の発言を止めさせてもらった。
「失礼ながら、2人とも感情的になってきているように見受けられます。
相手の話を最後まで聞き、司会の指名を受けてから発言するようにしませんか」
と提案し、 さらに
「聞いている私はつらいです」
と率直な気持ちを伝えた。
そこから議論は冷静さを取り戻したものの、
着地点が見えず、堂々巡りの状況は変わらなかった。
司会者が第三者の意見を求めたため、
私も自分なりに感じたことを述べた。
話した要点はだいたい以下の通り。
- Aさんの行動と発言は、役を全うしようとしている姿勢で理解できる。
- Bさんの行動と発言も、過去の経緯を踏まえれば当然の主張であると理解できる。
- AさんもBさんも、それぞれ理解できるが、
その途中のどこか、または第三者で間違い、またはくい違いが発生したのだろう。
- いまとなっては、Aさんの主張を取ればBさんが困り、Bさんの主張を取ればAさんが困る。
さらに、それぞれの周囲の人々も困る状況になる。
- こうなると、AさんとBさんのどちらが筋が通っていないかを議論することは不毛で無意味。
「誰が悪いのか、何が悪いのかを議論するのではなく、
今どうするべきかをAさんBさん2人ではなく、
みんなで決議することが、前に進む方法ではないか」
と提案させてもらった。
問題が起きると、「誰が悪いのか」「何が悪いのか」という悪いこと探しが始まることが多い。
それが全く意味がないとは言えないが、私たちは裁判官ではない。
誰が悪いかを決めたところで、何も得られるものはない。
それぞれの人に、それぞれの正義がある。
大前提として、少なくともそこを私は理解しているつもりだということを伝える。
議論がぶつかると、気を付けないと自分自身が否定、または攻撃されていると感じてしまうことがある。
また、相手にそう感じさせてしまう発言をしてしまうこともある。
私もその傾向は強い。
そういう時は、第三者の出番なのだと思う。
攻撃も否定もしていない。
少なくとも、第三者である私はそれを理解していることを伝え、安心してもらい、無理に自分を守る必要がないことを感じてもらう。
その上で、次のステップとして、合意点を探り、そこを目指す。
大事なのは、「どういう状態が良いのか」、
そして「そのために何をすればいいのか」を考え、
それを行動に結びつけること。
犯人を捜したり、悪者を作り出すことではない。
いろいろ言いたいことはあるだろうが、それはお互いさま。
その中で、私(たち)は何をするのか?
今回は地元自治会の話だったが、
会社であれ地域であれ、すべて同じだと思う。
会社や地域、団体や自治体でも見られるが、
「誰が悪いのか」という犯人探しは見ていて気持ちのいいものではない。
時には見苦しささえ感じる。
当事者たちは一所懸命に当然の主張と思っているだろうが、
周囲から見ればどちらに対してもシラけるだけである。
良い方向に向かう行動に専念する。
少なくとも、自分と自分の周りの人々はそうでありたいと願う。