ブログ・コラム

2013.10.14

中今(なかいま)と、敬上慈下(けいじょうじげ)

長岡@静岡クラウド&ホームページ制作隊長です。

きょうは、深澤電工さんの、創立50周年で、薬師寺の大谷徹装(おおたにてつじょう)さんというお坊さんの話を聞いてきました。

その話しは、一言で言うと、ブログタイトルになっている、中今(なかいま)と、敬上慈下(けいじょうじげ)についてでした。

先祖や目上の人を敬う心を敬上。

子孫や若い人などを慈しむこころを慈下。

先祖と子孫の中の今ということで中今。

 

その話の中で印象に残ったのが、我は経験から来るものだからなくならない。

だが、我が強くなると自分だけが正しいと思うようになる。

これが、人間関係のトラブルを招く。

自分の我はなくならないが、自分の正しさは自分の経験から来る価値観であり、生き方・考え方なのだから、経験が違う他人は違う正しさを持っている。

その相手を、自分の尺度(正しさ)で図って決め付けるのではなく、相手には相手の尺度があるのだ。

 

このことは、私も、5年位前に、ふと気づきました。

それまでの私は、正しさというのは1つだと思っていました。

社員と、かなり議論になることもあり、それが元で退職していった人もいました。

でも、人には人の考え方があり、それはその人の中では正しいのだという考えに行き着きました。

 

それからの私は、なにが正しいのかという議論をすることをやめました。

アーティスティックスは、何をするのか、何を目指すのか。

そして、それを一緒に目指して行ってくれるのか、これを議論することにしました。

こうすると、無用なトラブルはなくなりました。

今日の話は、そのこととリンクして、あぁ、そういうことだったのかと、納得が行った話しでした。

 

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