ブログ・コラム
2012.11.25
観自在
テレビで、光による非接触の分析で、食品に付着している菌の測定をする研究者の事をやっていました。
その中で、研究者が大切していることが、「観自在」なんだそうです。
観自在????
かんじざい・・・・
恥ずかしながら、知らない言葉でした。
どうやら、仏教の教えで、物事をいろんな角度からみることができること、というようなことだという。
ふ~ん、なるほど。
「ブログネタに使えるかな」
というのが、正直な感想でした。
そして、ブログを書こうと思ってネットで調べると、またちょっと違った意味合いで書いてありました。
その内容がとても興味深いので、ご紹介します。
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「あなたはここにある白い紙の中に、ポッカリ浮かぶ白い雲が見えますか?」
ベトナムの僧侶、ティクナット・ハンさんの「般若心経〈ハート・スートラ〉」は、こんな書き出しで始まります。
「見えません。」とあなたは答えるでしょう。
ミルという言葉には、二つの漢字があります。
見る〈肉眼で〉と観る〈心眼で〉です。
白い紙の上に白い雲が、肉眼で見えたらすぐに眼科か精神科に駆け込んでください(笑!!)
「観る」は観察するということです。
質問を変えると「白い雲なしに、この一枚の白い紙は存在することが出来ますか?」ということです。
あなたは「分かりません。」と答えます。
ではお答えしましょう。
一枚の白い紙は、紙になる前は木、樹木として存在していました。
樹木には水が欠かせません。
その水はどこから来ましたか?
そう、ポッカリ浮かぶ白い雲なしには、一枚の白い紙は存在しないのです。
でも実は、木を切る木こりのエネルギーなしには、運んでくるトラック運転手のエネルギーなしでは、
太陽のエネルギーなしでは、一枚の紙はここに存在できないのです。
すべての物質は関わり合って、いまここに存在しています。
単独で勝手に存在しているものなどないのです。
それを「すべてはひとつ」と言うのです。
一枚の紙の中にさえも、さまざまなエネルギーが存在しているのです。
その存在の状態を仏教用語で一如〈一つのようなもの〉といいます。
この観察が出来る人のことを「観自在菩薩〈自由に観察できる人〉」と呼びます。
一如の世界とは真如〈本当の〉の世界なのです。
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なんか、とっても内観的な考え方に通ずるところがありますね。
また、これらのことを、いちいち言葉にして表すことはできないため、人は、「1枚の紙」と、一言で表してしまう。
そのことにより、人は思考停止をしてしまうという。
なるほど、すべてのことを言葉で表そうと思うのは無理なのかぁ。
うん、なるほど、確かにそうだ。
私には、何度も経験がある。
言葉で表して相手に伝えたいが、どう表していいかわからない。
説明していても、「こりゃ伝わらないな」と思いながらも説明し続けている。
言葉とは、発明したものであるから、それがすべてを表すのは無理。
カッターで指を切った痛さと、ハンマーで指を打った痛さ、足の小指をテーブルにぶつけた痛さ、前回ぶつけた痛さと今回ぶつけた痛さの微妙な差を言葉で表すことは難しい。
また、厳しい言葉を言われて心が傷ついたときの痛さもなかなか言葉では表しづらい。
これらを、正確に相手に言葉で伝えるなど、無理な話しだ。
結局行きついたのは、言葉で伝えることではなく、
相手の心を感じ取る、自分の柔軟な心
これが、大切なのだということ。